破壊の日― ジーメス神父の広島原爆―現場目撃証言 |
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* 「米国戦略爆撃調査団報告―広島と長崎」の中でただ一人、実名をあげて目撃証言を引用されているイエズス会の神父、ヨハンネス・ジーメスは原爆投下の翌月、赴任先の上智大学のある東京に移り、「原爆の広島」で見たまま、経験したままの手記を1945年9月24日に書き残した。 トルーマン政権は、原爆を投下する前から、報道管制には神経を尖らせており、その実情がアメリカ国民に知られないように周到な用意をしていた。 1945年7月25日米国陸軍参謀総長代行トーマス・T・ハンディ大将は、陸軍戦略航空隊司令官カール・スパーツ大将に、1945年8月3日以降日本に対する原爆投下を指示する正式文書を送る。軍事的な観点からの正式指示書である。(政治的にはこの時はまだ未決着であった。)わずか5項目からなる簡単な指示書のうち、2項目までが、原爆投下後の報道管制、検閲に関する指示であった。 (http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-6.htm ハンディ将軍からスパーツ将軍への指示書参照のこと。) またマンハッタン計画の執行総責任者、レジール・グローブズが原爆投下後、最大の課題としたのが、原爆に関する報道管制・検閲であったことは、投下直後オッペンハイマーがグローブズに対して「投下成功の報告」を行った電話記録からも窺える。 (http://www.inaco.co.jp/isaac/back/009/009.htm の中のグローブズとオッペンハイマーの電話会話記録を参照のこと。) 実際投下後、連合国最高司令官マッカーサーの司令部はこのトルーマン政権と軍部からの指示を忠実に守り、占領後の日本に置いて原爆に関する情報を徹底的に検閲した。 原爆の実態・惨状がアメリカ国民に知られることを極端に恐れたのである。そしてこの徹底した検閲はニューヨーク・タイムズをはじめとする大手マスコミの協力の下で大成功を収める。 トルーマン政権と軍部は、ここでジーメス神父が書き残しているような手記を一般アメリカ国民が読むことを恐れたのである。ジーメス神父が暴いたような、その残虐性と非人道性にアメリカ国民がどう反応するかは火を見るよりあきらかだ。 本来ならば、このジーメス神父の手記もマッカーサー司令部の検閲にかかり、没収され永遠に闇に葬られていたことだろう。しかしこの手記は検閲を逃れた。ウォー・タイムズ・ジャーナルの記述(http://www.wtj.com/archives/hiroshima.htm)を信ずれば、この手記を書き終えたジーメス神父は、占領軍の一員として来日した従軍牧師フランクリン・コーレイに偶然出会い、この原稿をコーレイに託した。コーレイはその後アメリカに戻って発表の機会を窺っていた。ここに掲載した記事は、「聖心の使途」1970年7・8号に掲載された日本語訳を西尾禎郎氏らの好意で、Web上に再録させて頂いたものである。 一読しておわかりのように、ジーメス神父の観察は、今読んでみても驚くほど冷静・客観的である。広島市郊外の長束にいた神父の、原爆投下の模様の観察は、驚くほど「米国戦略爆撃報告 広島と長崎」の報告記述と一致している。また原爆当時の惨状に関する記述も高ぶる感情を押さえた筆致で淡々と事実関係を時系列的に叙述している。そのことがかえってこの手記の、現場報告としての迫真性を増し、凄惨の度合いを強め、説得力に富んでいる。日本の兵隊に敵国人と間違われてサーベルで斬りつけられながらも、日本人被害者の救済と介護に当たった、ジーメス神父をはじめとする外国人宗教者の行為に関する記述は、淡々と述べられているだけに感動的ですらある。 この手記が、原爆直後に英語圏で発表されていれば、トルーマン政権にとって恐らく原爆以上の衝撃を与えたに違いない。今読んでみても貴重な現場報告である。 ジーメス神父の明晰な頭脳と熱い心を感じさせる手記でもある。 |
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破壊の日 |
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J・ジーメス 著 | |||||||||||
出 崎 澄 男 訳 | |||||||||||
その日の朝 | |||||||||||
八月六日まで、広島にはほとんど爆弾らしいものがなかった。ときに爆弾が落ちることもあったが、その数を全部あわせても何発かという程度で、損害も軽微だった。 まわりの都市がつぎつぎと破壊されてゆくなかで、広島だけは無傷だった。毎日のように偵察機が広島の上空をかすめたが、一発も爆弾を落とそうとしなかった。 市民は、なぜ自分たちの町だけがこんなに長いあいだ放っておかれるのか不思議がり、敵にはなにか特別のたくらみがあって、わざと広島だけ残してあるのだという奇妙な噂も流れていた。しかし、まさかあれほど苛酷な運命が襲いかかってくるとは、誰ひとり想像していなかったにちがいない。 八月六日には、朝からぎらぎらと太陽が照りつける暑い日だった。午前七時ごろ、いつものように警戒警報のサイレンが鳴り、やがて敵の飛行機が二、三機、市の上空にあらわれた。しかし、これを気にかける人はいなかった。じじつ八時ごろには警報も解除された。 その朝、私は長束にあるイエズス会の修練院の自室に居た。ちょうどその半年ほどまえに、イエズス会の東京在住の哲学部と神学部の人員は、皆この長束に避難してきたのである。修練院は、広島の市街から二キロメートルほど離れた、広い谷を見おろす山の中腹にある。この谷は、海をのぞむ広島の市街から山々の連なる後背地にむかって伸びており、谷の底にはひとすじの川が流れている。私の部屋の窓の下から東南の方向にひろがる谷間の景観は素晴らしく、さらにその向こうには広島市街の一端がのぞまれた。 突然――ちょうど八時十五分ごろだった――谷ぜんたいがまぶしい光に包まれるのを私は見た。それはちょうど写真をとるときに焚くマグネシウムの光のようなものだった。それと同時に私はなにか熱の波が身体のまわりを過ぎるのを感じた。 私は、この異様な現象の原因を知ろうとして窓の方にとんでいったが、この黄色のまぶしい光のほかには何も見いだすことができなかった。そこで私は外に出て確かめようと思い、ドアの方にむかった。まだそのときには、その光が敵の飛行機となにか関係があるのではないかというようなことは思い付きもしなかった。 窓からドアにむかって歩いているとき、やや遠くの方からやって来たような、中程度の強さの爆発音がきこえた。その瞬間――たぶん光が見えてから十秒ほど経過していた――窓や梁の折れる烈しい音が起こり、ガラスの破片が霰のように私をめがけて飛来した。みると、窓枠が残らず内側にむけてへし折られている。その瞬間に、はじめて私は爆弾が炸裂したのだということをさとった。 私はとっさに、爆弾は我々の住んでいる建物に命中したか、それでなければ至近距離に落ちたにちがいないと思った。いつのまにか両手と頭に怪我をして血が出ていた。ドアから外に出ようとしたが、ドアは風圧で廊下のほうに硬くめり込んで開かない。足で板を蹴破ったり引きはがしたりして、ようやく建物の真中を貫いている広い廊下に出ることができたが、そこもまた甚だしい破壊と混乱のあとだった。天井は押しつぶされ、廊下の両側にならぶ部屋のドアというドアはへし折られ、廊下の本棚もみな横倒しになってしまっている。爆発は一回しか起こらなかった。 敵の飛行機は行ってしまったらしかった。修道士たちは、ほとんどの人が木やガラスの破片で怪我をしており、なかには出血している人もあったが、重傷を負った人はいなかった。しかし、私の部屋の窓に面した壁にいくつもの突き刺さった大きなガラスの破片をみてもわかるとおり、重傷者がでなかったのはただ幸運としか言いようがあるまい。 我々はどこに爆弾が命中したのか見ようとして建物の外に出たが、どこを探しても爆弾の跡らしいものは見あたらなかった。ただ、建物の東南の側がひどく破壊されていて、そちら側の窓やドアはすべて吹き飛ばされていた。爆風は東南の方向からやってきて建物を斜めに吹き抜けたようにみえた。しかし全体として建物は倒れずに残っていた。この建物は日本式の木造家屋であったが。これを建てたグロッパー修士は、骨組みだけは日本家屋よりずっと頑丈に造っておいたのである。ただ、この建物に接続して建っている礼拝堂――これは日本風のお寺のつくりで純木造なのだが――の方は、梁が三本も折れてしまった。 修練院から広島の方にむかって一キロメートルほど谷を下ったところにある何軒かの農家に火の手が上がっているのが見え、谷をはさんだ反対側の森でも山火事が起こっていた。何人かの修道士たちが農家の消火を手伝うために谷を駆けおりていき、残った者はこわれた修練院の跡片付けをはじめたが、このころから雷鳴がきこえ、しとしとと雨が降り始めた。 遠く市街の方には火災による雲のような煙があがり、ときたまかすかに爆発音がきこえるのを私は聞いた。私は、あれやこれやを考えあわせて、これは異常に強烈な爆発力と散布力をもった焼夷弾が谷の下の方から広島市の方面にむかって落とされたにちがいないと考えた。何人かの修道士は、あの爆発のとき広島市街方向の上空はるか高いところに三機の機影を見たといっているが。私自身はそれを見ていなかった。 |
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悲 惨 な 行 列 | |||||||||||
爆発から半時間もたったころ、市街の方から谷間を登ってやってくる人々の行列が見られるようになり、時をおってその数はふえていった。何人かは我々の修練院にもやって来た。彼らは、まるで身を引きずるようにして登ってきたが、その顔は黒ずんでおり、体のあちこちに出血や火傷があった。我々はこの人々に修練院の常備薬で応急手当てをし、跡片付けのすんだ礼拝堂につれて行って畳の上に横たえた。なかには腕や脚、背中などにひどい火傷をしている人もあった。 これらの人々には、戦時中のことで手持ちのとぼしい脂肪を少しずつ塗った。院長はイエズス会に入る前に医学を学んだ人だったので負傷した人々の治療にあたった。しかし我々の手持ちの包帯や薬はたちまち底をついてしまった。それからあと我々にできたのは、負傷箇所を清潔に洗ってよることだけだった。 修練院にやって来る人の数はますますふえていった。軽傷の人は重傷の人を背負って、坂を這い登ってきた。なかには怪我をした兵士たちもあった。火傷をした子供を抱いた母親たちの姿もあった。谷の下の農家から使いが来て、そこの家屋敷は負傷者と死人でいっぱいになったから、重症者だけでもそちらで引き受けてもらえないだろうかと言ってきた。 これらの負傷者たちは、広島市街のはずれにある区域の人々で、この区域では、あのまぶしい光とともに家が倒れ、多くの住民が倒れた家の下敷きになったのである。 戸外にいた人々は下敷きになることはまぬがれたが、その代わりにあっという間に体のあちこちに、ことに衣服に覆われない部分や衣服の薄い部分に火傷をうけた。区域内の各所から火の手があがり、区域全体が灰燼に帰したという。これらのことから、我々は爆心地を、広島市のはずれのこの区域すなわち修練院から三キロメートルほど離れた横川駅のある辺りだと推定した。(* 爆心地の島病院あたりから横川駅は直線で約1.9Kmある) コップ神父のことが気がかりになってきた。神父はこのときちょうど、この区域に養育施設をもっている「煉獄援助修道女会」の修道女たちのためにミサをたてに行って、まだ帰って来なかった。 正午ごろには、修練院の広い礼拝堂と図書室は重傷者であふれた。市街から逃れてくる人々の行列は止まるところを知らなかった。ようやく一時ごろになってコップ神父が戻った。彼は六人の修道女といっしょだった。彼女らの修道院とその周辺の地域ぜんたいが焼け野原になったとのことである。神父は頭と頸部に出血しており、右手の甲には大きな火傷があった。神父は、ミサを終わって修練院に帰るため彼女らの修道院を出たとたんに、突然あの光を見、熱波を感じ、手の甲に大きな水泡ができるのを見たということである。爆風はものすごい音をたてて家々の戸や窓を吹き飛ばしたので、神父は、すぐ近くに爆弾が落ちたと思ったという。 ここの修道院の建物もまたグロッパー修士が建てた木造建築だったが、この建物も爆風に耐えた。しかし、地域のあちこちから起こった火の手はまたたくまに修道院にも襲いかかり、しかも消火に使える水はなかった。それでも神父や修道女たちは多くの荷物を建物から運び出して、修道院の前の広場に穴を掘って埋めることができた。やがて修道院は焼け落ち、彼らは燃えさかる街路をくぐり抜け、川に沿って落ちのびて来たのであった。 広島市の全体が、どこもかしこも爆発の被害をうけて家屋が倒壊し火災につつまれているという情報が入ったのは、それから間もなくのことだった。だとすると、市の中心部にある管区本部と司祭館に住んでいる管区長と三人の神父たちはどうなったのだろうか。(*管区本部と司祭館は、爆心地から直線距離で約1300m離れている幟町にあった。) それまで我々は爆弾の被害が市全体に及んでいるとは思っていなかったので、彼らの安否を気にかけていなかった。それに我々には必要のないかぎり市街に入ること差し控えたい気持ちがあった。というのは、市民たちは非常に興奮していて、外国人を見ると自分たちの不幸を見にやって来たのんきな見物人か、悪くするとスパイだと思って襲いかかってくるのではないかと我々は憶測していたからである。 シュトルテ神父とエルリンハーゲン神父は、山を下って避難民の群れであふれる道におり、道端に倒れている重傷者を村の小学校につくられた臨時救護所まで運ぶ仕事をやり始めた。この救護所では傷にヨードを塗りつけるだけで、負傷箇所を洗ってやることさえしなかった。包帯その他の資材もなかった。そこに運び込まれた人々は地面の上に寝かされたきりで、誰もそれ以上のことをしてよろうとはしなかった。しかし薬も包帯もないとき、それ以上の何ができるだろうか。救護所に運び込むとはいっても、別段それが何の役に立つというわけでもなかったのである。 ぞろぞろと通り過ぎてゆく避難民のなかには、まったく無傷の人も多かった。災難の大きさに打ちひしがれてか、家族の安否を気づかうあまりか、彼らは火傷や怪我に苦しむ人々のそばをとおりすぎながら、これに対してひとかけらの関心を示すのでもなく、あるいは混乱して半ば放心状態のままただひたすら歩むばかりで、自分からすすんで救護活動を組織しようなどとは思いつきもしないようだった。 |
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市 内 の 神 父 た ち | |||||||||||
午後の四時ごろに、市の中心部にある教会の構内に住んでいた一人の神学生と二人の幼稚園の保母がやって来て、教会と司祭館と付属の建物が消失したこと、管区長のラサール神父とそれにシッファー神父が重傷を負い、皆が川沿いのアサノ公園(*縮景園)に避難していることなどを知らせてくれた。神父たちはみな甚だしく消耗していて、とてもここまで歩いて来られないということだった。この人々を連れに行かなければならない。 にわかづくりの担架をもって、我々は総勢七人で市街にむけて出発した。院長も薬と食料をもって加わった。市街に近づくにつれて破壊の程度ははなはだしくなり、前進は困難さをました。市街にほど近いあたりまで来ると、ひどい損傷をうけていない家屋は一つとしてなく、多くの家は倒壊するか焼け落ちてしまっていた。 市街地に入ったところでは、すでに家屋はすべて焼失してしまっていた。昨日までの市街が、いまはだだっぴろい焼野原となっている。 燃えくすぶる廃墟を通って、川沿いの道に出た。余燼から発する熱気と煙にはばまれて、我々は二度も土手を降りて川床を歩かねばならなかった。ひどい火傷をした人々が我々とすれ違い、よろめきながら歩き去った。道端には死体がころがり、力尽きて倒れ伏している人々の姿もみられた。 市の中心部の方に通ずる三篠橋のたもとで、我々は、火傷を負った兵士たちの長い列とすれ違った。彼らは杖にすがり、あるいは軽傷の戦友の背に負われて、這うように進んでいた。それは、ながいながい悲惨な行列だった。 橋の上には、見捨てられた一群の軍馬が、頭をたれて立ち尽くしていた。馬の腹にも大きな火傷があった。橋の向こうには、この焼野原でただひとつ逓信病院のコンクリートの建物がそびえ立っていたが、これも内部は焼け落ちていた。この建物を道標にして、ついに我々は目指す公園の入り口に到達した。 そっくり一つの市区の人口にあたるほどの人々が公園に避難していた。しかし公園の立ち木もあちこちで燃えていた。公園に入る道路や橋はどれもみな倒れた太い樹木でふさがって通れなかった。 居合わせた人の話では、市街の大火災の熱によって起こったと思われる大風で、大きな木が根こそぎ倒されたという。あたりはもうすっかり暗くなっていた。ただ、少し離れたところでまだ燃え続けている火災の炎が、いくらか照明の役をはたしていてくれていた。 公園のずっと隅のほうの、川のすぐそばのところで、シッファー神父は死人のような青白い顔で地面に横たわっていた。彼は耳のうしろに深い傷を負って出血がはなはだしく、生命が危ぶまれるほどであった。管区長は脚に重傷をうけていた。チースリク神父とクラインゾルゲ神父の傷は浅かったが、二人とも消耗しきっていた。 我々が持参した食料をとりながら、彼らはこの一日に経験したことを話してくれた。彼らはそれぞれの司祭館の自室に居た。すると突然――八時十五分ごろ、つまり我々が長束で戸外に爆発を認めたと同じときに――まぶしい光に続いて窓や壁や家具のこわれるはげしい音が起こった。彼らはガラスや木材の破片を雨霰のように身に浴びた。シッファー神父は崩れ落ちた壁の下敷きになって頭部を強打し、管区長は背中に無数のガラスの破片を受け、また片足がひどく出血しはじめた。部屋の中は何もかも滅茶苦茶になってしなっていたが、建物の木造の骨組みはゆるがなかった。ここでもグロッパー修道士の腕が見事に証明されたわけである。 彼らは、我々が長束で感じたのと同じように、至近距離に爆弾が落ちたと思ったそうだ。あとから知ったことだが、爆心は教会から五○○メートルほど離れたところだったそうである。(* 実際には直線で約1300m) 聖堂や伝道士の家を含めて、周囲の建物はすべて一瞬のうちに倒れてしまった。つぶされた伝道士の家の下から幼稚園の保母たちが助けを呼ぶ声がきこえ、神父たちは苦労して彼女らを救い出した。また神父たちは航海の近所からも生き埋めになった人たちを何人か救い出した。管区長とシッファー神父も、自分の負傷をかえりみずに救助作業に加わり、このため一層はげしい出血をみることになった。 少し離れたところから火の手が出てひろがりはじめ、やがて教会のあたりも火の海に呑まれてしまう見通しがはっきりしてきた。それでも神父たちは、その後いくらかの家財を司祭館から運び出し、教会の前の広場に埋めた。しかし、非常持ち出しの貴重品や重要書類などの多くは爆発による混乱のためついに発見できず、あるいは所在が判明しても取り出すことができずじまいであった。 はやくも火の手は神父たちを囲んで、もはや脱出の道すらふさがれそうになってきた。もう一刻の猶予もならなかった。管区長秘書の深井氏は、怪我は全然なかったが精神的に参ってしまって、司祭館から出ることを拒否し、祖国の滅亡を眼前にして生きのびるのは嫌だと頑張った。 クラインゾルゲ神父が深井氏を背負って司祭館の外に引きずり出し、他の神父たちも力を合わせて無理矢理に彼をつれて脱出をはじめた。道路ぞいに逃げるうちにも、倒れた家々の下から救いを求める声が沢山きこえた。放っておけば焼死することはわかっていても、この人たちを救い出す時間はもうなかった。 神父たちは市の郊外に逃げようと思ったが、もうそこまで行ける見込みはなかった。彼らはアサノ公園にむかって走った。途中から深井氏は走ろうとしなくなり、皆から離れて立ち止まってしまった。それからあと深井氏がどうなったかは誰にもわからない。 公園では誰もが川岸の方に寄ろうとした。火災の区域がひろがるにつれて強い風が吹き始め、午後二時ごろからは颶風(つむじかぜ)にかわって、あたりが暗くなった。海の方から川をさかのぼって竜巻が襲ってきた。クラインゾルゲ神父はシッファー神父をかばおうとして、その上に覆いかぶさって倒れ、他の人々は地面にしがみついた。教会の炊事婦は伏せようとしなかったので、吹き飛ばされて川に落ちてしまった。川の水が数十メートルも高く巻き上げられた。竜巻はおよそ五分間ほど荒れ狂って通りすぎたが、結局この風では神父たちをはじめ教会関係者のうち怪我をした者はでなかった。 しかし、公園から少し下流にかかっている橋では、その上に避難していた人々が多数川の中に吹き飛ばされた。 公園は避難民であふれていた。ほとんどの人は負傷しており、あるいは身内の者を倒れた家の下敷きにしたまま残してきたり、逃げる途中で見失ったりしていた。負傷者は手当てすら受けられず、沢山の人がそのまま死んでいった。すぐそばに死体がころがっていても、もう誰もそんなことを気にしなくなっていた。 |
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夜 の 救 出 | |||||||||||
負傷した神父たちを公園化ら連れ出す仕事は困難をきわめた。暗闇に中では彼らに包帯してやることさえ思うにまかせず、ちょっと動かしただけで傷口から血が溢れた。 我々は、持参したぐらぐらの担架に負傷者をのせて、倒れた樹木をまたぎながら暗闇の中を歩きはじめたが、担架の動揺がはげしいため、負傷者は絶えがたい痛みに苦しまねばならなかった。 それだけではない。動揺につれて彼らの傷口からは致命的なほど大量の血が流れ出すのだった。 このときに出会った顔見知りの日本人のプロテスタント牧師は、困り果てている我々にとってまさしく地獄に仏であった。彼はどこからか1艘の小舟をみつけてきて、これで川を下って徒歩の可能なところまでわたしてくれることを承諾した。まずシッファー神父の担架を小舟に移し、二人の者が同乗した。 小舟は管区長を運ぶためにもう一度もどって来てくれることになった。半時間ほどして小舟はもどって来たが、舟の中から牧師の声がして、何人か手助けに降りて来てほしいと言う。川をさかのぼってくるとき子供を二人救いあげたのだそうだ。子供は二人とも火傷をしていて、公園に引き上げられるのと同時に悪寒に苦しみはじめ、まもなく死んだ。 今度は管区長を舟に移す番だった。私と神学生が同乗した。チースリク神父は元気をとりもどして、私をのぞく救援隊の者たちと一緒に長束まで歩いてゆくことになった。クラインゾルゲ神父はこれ以上歩けないということで、彼と炊事婦は公園に残して、翌日迎えに来ることにした。 川向こうからは、火災におののく馬のいななきが夜の闇をとおして聞こえてきた。やがて我々は川岸と陸続きになった浅瀬に上陸した。この浅瀬は、火災を逃れて川に飛び込んだ負傷者たちで埋まっていた。彼らはわれわれにむかってくちぐちに助けを求めた。 彼らはもう自分で動く気力がなく、満潮になって水嵩が増したら溺れてしまうのではないかと恐れていたのである。しかし我々は急がねばならなかった。 やがて我々はシッファー神父たちのグループが待っている場所に行きついた。そこには、どこかの救援隊が置いていったらしいおにぎりのいっぱい入った大きな箱があったが、それまでこのおにぎりを倒れている負傷者たちに配ってやれる人がいなかったのである。 我々は近くにいる負傷者たちにおにぎりを配り、自分たちも食べた。負傷者たちは水が欲しいと叫んでいたので、何人かの人々に水を分けてやった。他にも暗闇のあちこちから助けを求める声がきこえていたが、倒れた家の材木に阻まれて、そこまで行きつくことができなかった。 一隊の兵士たちが近づいてきた。我々が外国語をしゃべっているのに気がついた将校が、いきなりサーベルを抜いて誰何し、我々に斬りかかった。ラウレス神父が彼の腕にしがみついて、じぶんたちはドイツ人であることを説明し、将校を落ち着かせた。その将校は、我々が落下傘で降下したアメリカ人だと思い込んでいたのである。そんな噂が市中に流れていたからであった。 管区長はシャツとズボンだけの姿をしていたが、暖かい夏の夜に、それも火事跡の熱気につつまれた場所でありながら寒さを訴えはじめた。一行のうちで一人だけ上着を着た者がおり、彼が管区長に上衣を与え、さらに私も自分のシャツを与えた。熱気の中を上半身裸で歩くのは私にとってかえって快適だった。 そうするうちに真夜中になった。二つの担架のそれぞれに4人ずつ屈強なかつぎ手がつくには人数が足りなかったので、話し合ったすえ、まず全員でシッファー神父の担架をこの火事跡から郊外まで運び出し、そこから一人が長束に急行して応援を求め、残りの者は管区長の担架をかつぐためにここに戻ってくるというてはずをきめた。私もシッファー神父の担架をかついだ。 神学生が先導者になって、暗闇の中で道をふさいでいる電線や木材や石塊などに注意する役を受け持った。どんなに注意深く歩いても、我々はしばしばつまずき、電線に足をからまれた。クリューエル神父が,がらくたの中に倒れこんで担架を落とした。 このショックでシッファー神父はなかば失神して嘔吐した。途上われわれは一人の負傷者のそばを通り過ぎたが、この人は昼間われわれが公園にむかって行くときから、熱気のたちこめる廃墟にただ一人すわり込んでいて、奇妙な人だと思っていたのである。 三篠橋のところで、長束から応援にかけつけたタッペ神父とルーメル神父に出会った。彼らは道から五十メートルほど入ったところで、倒れた家の下から一家族の人々を救い出したところだった。父親はすでに死んでおり、二人の娘は救い出されて道端に寝かされていたが、母親はまだ家の下敷きになったままだという。二人の神父は母親を救出してから我々に追いつくといった。 郊外に出たところで我々はシッファー神父の担架をおろし、長束からの救援が到着するのを待つあいだ二人の者をそこに残しておくことにした。残りの者が管区長の担架をかつぐためにとって返した。倒壊した町並みはほとんど焼けつくしていた。暗闇のおかげであちこちに転がっている死体は目に入らなかったがそれでも歩いている間じゅう、助けを求める多くの声が我々の耳をうった。 なにかが焦げるような変な臭いが我々の鼻をさしたが、あれは死体の焼ける臭いだと誰かがつぶやいた。もう二度もおめにかかった例の奇妙な人物は、相変わらず同じところにじっと坐りこんでいた。 板切れを集めてつくった担架で運ばれるのは、管区長にとって大変つらいことだったに違いない。彼の背中はガラスの破片がいっぱい突き刺さっていた。郊外の狭い道を歩いているとき、向こうから自動車がきて我々を道の端に押しつけた。おかげで左側をかついでいた人たちは二メートルも下の溝におちてしまった。 あたりが暗いので、誰も溝に気がつかなかったのである。管区長は痛みに耐えかねながらも冗談にまぎらせていた。しかしこの事件で担架はこわれてしまって、これ以上進むことができなくなってしまった。そこで我々は金城修道士が長束に手押し車をとりに行ってくるのを待つことにした。 金城修道士はすぐ手押し車をおして戻ってきた。そのあたりのこわれた家の前でみつけて徴発してきたのだという。そこから長束まで、管区長を車にのせて、轍(わだち)を道の深いくぼみみに落とさぬように出来るだけ用心しながら歩いて帰った。我々が修練院にたどり着いたのは、すでに朝の四時半だった。普段ならば二時間で往復できる道程を、我々の救援行は実に十二時間ほどもかかったのであった。 二人の負傷者もようやくしっかりと包帯をうけることができた。私は二時間ほど床の上で眠った。ベッドは誰かに占領されていた。目が覚めて私は感謝のミサをあげた。この日は八月七日、わがイエズス会の再建記念日にあたっていた。やがて我々は、市内に残してきたクラインゾルゲ神父をはじめとする人たちの救援に出発した。 |
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再 び 廃 墟 の 街 へ | |||||||||||
我々は手押し車をおして出かけた。昨夜は闇にまぎれてみないで済ませた恐るべき光景が、いまは明るい陽光の下で否応なく我々にせまってくる。かつての市街地はいまや見渡すかぎりの灰とがらくたの廃墟となっている。いくつかのコンクリートの建物が立ってはいるものの、内部は完全に焼け落ちている。 川岸は死人と負傷者で埋まっている。海から潮が入ってきて、川べりの死体はだんだんおおわれてしまった。ことに白島地区の広い街路には裸の死体が多かった。ここでも死体にまじって負傷者がころがっている。夏の日ざしが容赦なく彼らに照りつけている。そこまで這って行ったのでもあろうか、焼け焦げた自動車や市電の車体の日陰に横たわる負傷者もいくらかいた。恐ろしい姿に変わりはてた人々が、よろめきながら我々に近づき目の前で力つきて倒れた。 女の子をつれた老婆が我々の足下に倒れこんだ。我々はこの二人を手押し車にのせて、逓信病院の玄関に設置された包帯所に運んだ。そこには負傷者の群れが固い地面に寝かされていた。ここでも、お粗末ながらも包帯がしてもらえるのは傷や火傷の程度が甚しいものだけであった。 ほかに我々は一人の兵士と一人の老婆を包帯所に運んでやったが、照りつける太陽の下で倒れ伏す人々を残らず運ぶなどということは、とうてい不可能なことだった。それに、包帯所に運んでやったからといって、その人が助かる見込みがあるわけでもなかった。 というのは、包帯所でもなにひとつ適切な治療ができなかったからである。あとから知ったことだが、そこに運ばれた負傷者たちは、そのご幾日も看護をうけずに焼け落ちた病院の廊下に放置され、みな枕を並べて死んでいったのであった。 我々は公園をめざして急がねばならなかった。灼熱の日ざしの下に横たわる負傷者たちを運命の手にゆだねて進んだ。途中すこし回り道をして、教会の焼跡に立ち寄り、昨日、神父たちが土中に埋めておいたものを掘り出した。 埋めてあったものはすべて無事に残っていたが、そうでないものは残らず焼けはてていた。灰の中から、火災の熱で溶けた聖器の名残が見つかった。 公園について、我々は手押し車に炊事婦と二人の子供を連れた母親を乗せた。クラインゾルゲ神父は元気を回復して、陳(のぶ)原(はら)修道士に付き添われて徒歩で長束まで行くことになった。 帰りみちにもういちど死体と負傷者の横たわる白島を通らねばならなかった。そこには相変わらず救援活動の行われている気配がみられなかった。三篠橋のたもとには、昨夜、タッペ神父とルーメル神父が助け出した一家が横たわっていた。誰かが彼らに日覆いのためにブリキの波板をかぶせてやったらしかった。手押し車は満員で、この一家を乗せる余地はなかった。我々は彼らとその周囲に倒れている人々に飲み水を与え、あとからこの人々を連れに来ようと決心した。長束に帰りついたのは午後三時ごろだった。 あわただしく食事をすませたあと、シュトルテ神父とルーメル神父、エルリンハーゲン神父、それに私は、あの一家をつれて来るために再び長束をあとにした。クラインゾルゲ神父は、公園で彼のそばに寝ていた、母をなくした二人の子供を連れて来てくれるよう我々に求めた。道すがら、我々は見知らぬ人々から挨拶された。我々が負傷者を救助するために行動しているとみて、敬意を表してくれたのである。 (* 敬意を表してくれたどころか、皆この異国の神父たちを拝んだことであろう。) このころから、担架をかついで負傷者の救護にあたる幾つものグループに出会うようになった。三篠橋まできたが、あの一家はもうそこには居なかった。救護隊に救われたのであろう。ここでは、救護活動に従事する一隊の兵士にも出会った。けっきょく、公の救護活動が動きはじめるまでに、かれこれ三十時間以上もかかったわけである。 我々は約束どおり二人の子供を公園から連れ出した。一人は六歳の男の子で、負傷はしていなかった。もう一人は十二歳の女の子で、頭と両手両足に火傷があるのに三十時間も手当てをうけずに公園に横たわっていたのである。彼女の顔の左半分と眼窩は血と膿でかくれ、我々はてっきり彼女の左眼は駄目になっていると思ったほどである。しかし、あとで汚れを洗い落としたところが眼にはまったく異常がないことが判明した。 帰りみちで我々はさらにもう一組、三人家族を手押し車に乗せた。彼らは車に乗るまえに、我々にむかって、どこの国の人間かと尋ねた。落下傘で降下したというアメリカ兵の亡霊が彼らにもとりついていたのである。長束に帰りついたときには、もう暗くなっていた。 修練院には、火災で何もかも失ってしまった人々が五十人ほど収容されていた。ほとんどの人は負傷しており、致命的な火傷を負っている人も決して少なくなかった。われわれは皆この人々の看護と給食に全力をつくした。 院長は、苦労して手に入れたとぼしい薬品をつかって、この人々の治療にあたった。しかし結局のところ彼に出来たことといえば、傷口の膿をいつも清潔に拭いとってやることぐらいしかなかった。小さな火傷しか受けなかった人々も非常に衰弱し、みな下痢に苦しんだ。 下の農家の周囲にもいたるところに負傷者が横たわっていた。院長は毎日その人々のところにも回診してやり、名医でしかも大変慈悲深い人だという評判をとった。 我々が救護活動に示した努力は、まわりの人々の間にキリスト教に対する好意を生んだが、これは長年の布教活動でも得られなかったほどのものであった。 何日かのうちに、修練院に収容されていた人々のうちで重症の三人が死んだ。いずれも突然に心臓と呼吸が停止して死んでいった。死者がわずか三人ですんだのは、我々の看護がよかったことのひとつの結果だと思われる。公の救護所や病院では、じつに収容患者のうち三分の一ないし半数の者が死亡していた。それらの場所に収容された人々は殆んど看護らしいものを受けずに放置され、高い死亡率をみせたのである。とにかく、医者も看護人も、包帯材料も薬品も、なにもかも足りなかった。近くの小学校に設けられた救護所では、死者を運び出して学校の裏手で死体を焼くという仕事に、一隊の兵士たちが二、三日の間かかりきりになっていた。 何日ものあいだ、修練院の前の道路には、朝から晩まで死体を運ぶ行列が続いた。それらの死体は、修練院からほど近い谷にある六ヵ所の焼き場で焼かれるのであるが、人々は皆自分で薪をさげて来て、自分の手で死体を焼かなければならなかった。ルーメル神父とラウレス神父は、近所の家に倒れていた死者を運び出して、その窪地で焼いてやった。その死体はすでに腐敗してふくれあがり、はげしい悪臭を放っていた。夜おそくなっても向こうの谷は燃える死体の火で明るかった。 我々は八方手をつくして、我々に関係ある人々や我々のもとに避難している人々の縁者の消息をたずねた。何週間もたってから、遠方の村や病院で誰かが見付かるというようなことも多かった。しかし、なんの消息もない人も多かった。恐らく死んでしまったのであろう。 我々が公園からつれてきた二人の子供の母も、死んでしまったとばかり思っていたところが、これが生きていることが判明した。別れてから三週間後に子供に再会できた母親の喜びは大きかった。しかし、もはやみることのできない人を想う涙もまた多く流されていることを忘れてはなるまい。 |
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悲 惨 な 統 計 | |||||||||||
八月六日の朝、広島を襲った悲惨な運命がどれほど巨大なものであったかということは、私にはすぐにはわからなかったが、やがてそれは徐々に、いわば一コマずつ私の前にその全貌をあらわしはじめた。 私は破滅を断片的に経験したわけだが、やがて私の心の中でそれらの断片はだんだんにまとまって一つの全体像を構成するに至ったのである。 さて、あの瞬間に広島の全市域において起ったのは、つぎのような事態であった。八時十五分ごろに起った爆弾の炸裂によって、全市は一挙に壊滅した。ただ、わずかに市の東および南の一部の区域だけが、完全な破壊からまぬがれた。爆弾が炸裂したのは市の中心部の真上であった。そこを中心に直径五キロメートル以内にある木造の日本家屋――市の九九パーセントまでが木造だった――は、すべて爆風のために吹き飛ばされるか押しつぶされた。 爆発のとき屋外にいた人々は、爆弾から発するある種の物質ないし放射線によって火傷をうけ、この物質を多量に浴びた部分は壊疽になった。火災の拡がりは速かった。大地から立ち昇る火災の熱は颶風をよび、颶風は火災を全市に拡げた。 倒れた家の下敷きになって救出のおくれた人や、下敷きにならなくても火にかこまれた人は、すべて焼死してしまった。爆心から六キロメートル離れたところでも、すべての家がなんらかの損傷をこうむり、多くの家は倒れて火を出した。 十五キロメートル離れたところでも窓が破壊された。このような被害区域の広いことから,敵機はまず爆発性および燃焼性の物質を上空にばらまいておき、続いてこれを爆発させ燃焼させたのだという噂が住民のあいだに流れたほどであった。 ある人たちは、敵の飛行機が何か落下傘をつけて投下し、これが市の上空一千メートルほどのところで爆発するのを見たといっている。まもなく新聞はこの爆弾を原子爆弾と名づけ、あの強烈な風圧はウラニウム原子の爆発によってひき起こされたものであり、また爆発のさいガンマ線が放出されたと報じた。しかしこの爆弾の本当の姿は誰にもわからなかった。 この爆弾の犠牲になった人々の数はどれほどであったろうか。現場に居合わせた人々は、死者の数は少なくとも十万人だと推定している。ちなみに広島市の人口は四十万である。政府の公式の発表では、被爆が原因となって九月一日までに死亡した人々を含めて死者は七万人だと推定され(ただしこの数には行方不明は含まれていない)、同じく負傷者は十三万人となっている(このうち重傷者は四三五○○人)。しかし我々が知っている住民のいくつかのグループから概算した死傷者推計によれば、死者十万人というのは決して過大な数字ではない。 我々の修練院からほど近いところに、朝鮮人労働者の住む二つのバラック小屋がある。それぞれの小屋には約四十人ほどの朝鮮人が住んでいて、その人たちは当日も広島市のある街路上で仕事をしていた。生きて帰ってきた人の数は一つの小屋では四人、もう一つでは十六人であった。 市内の教会が面している通りに沿った民家では七○パーセントの人が死に、この通りと平行してもうひとつ爆心側に寄った通りでは九○パーセントの人が死んだ。 ある工場で働いていたプロテスタントのミッションスクールの六百人の女性のうち、生き残ったのはわずか三○〜四○パーセントであった。また県立の女子中学校の三百人の生徒は、ちょうどそのとき校庭に集合していたが、彼女らは殆んど全員が死亡したという。 修練院の近在の農家には市内の工場に通勤する人が多いが、これらの工場労働者のほとんど全員が死ぬか負傷している。修練院のすぐ隣には田村という人の一家が住んでいるが、田村氏は二人の子供を死なせ、また田村氏自身もたまたま所用で広島市に居合わせたために、ひどい火傷を負ってもどって来た。 これらのことから、死者と重傷者だけを数えるとしても、平均して五人家族のうち二人は犠牲者になったと考えられるのである。広島市長、中国総監府長官、広島連隊長、広島市で官途についていた一人の朝鮮の王族、その他数多くの高官が死亡した。 広島の大学教授たちのうち三十二人が死亡または重傷を負った。ことに兵士のうちに犠牲者が多かった。なかでも工兵隊の兵士たちは、兵舎が爆心の近くにあったため、ほとんど全滅したという。 負傷したあとで死んでいった人々のうち何千人かは、もしも適切な治療と看護さえ受けていれば間違いなく助かったはずである。しかし、誰もこれほどまで大規模な災害は予想していなかったし、全市が一撃のもとに壊滅した以上は、当然のことながら、市内に備蓄されていた救護用資材もすべて失われてしまっていた。しかも、市の周辺区域に被害をまぬがれて残存するはずの救護機能は、もとから救護組織に組み入れられていなかった。 多くの負傷者は、栄養不良による衰弱とこれに由来する回復力の不足によって死んでいったのであった。幸いにして正常の体力をもち、そのうえ正常な看護をうけることができた人々は、爆弾から放射された物質によってできた傷から徐々に回復していった。もっとも、充分に回復の見込みありと思われていた負傷者が突然死亡するというケースは、我々が引き受けた患者のなかにもあるにはあった。それどころか、外見上はまったく火傷のない人たちにも、口腔と咽頭に炎症をおこしたかと思うと一週間後に死亡してしまうというケースが出た。 はじめ我々は、これは爆弾から放射された何か不思議な物質を吸いこんだために内臓に障害が起ったものだと考えていた。その後ある調査委員会は、この原因についてつぎのような見解を発表した。すなわち、爆弾から放射されたガンマ線が、ちょうどレントゲン線を過大に浴びたのと同じように身体の組織をおかし、その結果として白血球が減少してこのような症状が起るのである、と。 このような症状が、爆弾から出る物質ないし放射線を大量に浴びた人々に起ったことは事実である。もっとも、外傷のない人があとになって死亡する例は、私自身としてはわずかに二、三例経験しただけである。 クラインゾルゲ神父とチースリク神父は、被爆二週間ほどたってから非常に衰弱した。それまでは、二人とも、爆発のときうけた小さな傷も順調に回復にむかっていたものが、このころから再び傷口の状態が悪化しはじめ、これを書いている今日(九月二十四日)にいたるまで彼らの傷口は癒合しない。 医者の診断では、二人とも白血球の減少がみられるという。してみれば、あの爆弾から出た放射線に血液を破壊する作用があるという発表にも、一面の真理が含まれているようである。しかし私は、両神父の現在の症状に関しては、栄養不良とそれによる衰弱という、もっと一般的な身体的原因も考慮すべきだと信じている。 世間では、広島市の廃墟には今もなお致死量の放射線が残っていて、市内の焼け跡の整理に出動させられた人々が次々と死亡しており、旧市街地域には今後もながいあいだ人間が住むことはできないのだという噂がながれている。 しかし、私はこの噂が真実だと思えない。私をはじめ、被爆直後に市内の焼け跡に行った者が、誰ひとりそのような爆弾の後遺障害を自覚しないからである。 |
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い か に 評 す べ き か | |||||||||||
あの日からあとでも、私は広島市民の口からアメリカ人に対する非難の声をほとんどきいたことがないし、アメリカに対する復讐心のような感情を抱いた人をみたこともない。人々は、あの恐るべき打撃を、ただ戦争にはつきものの不幸として受け入れ、非難の対象とすべきものとは考えてもいないようである。 この戦争の全期間を通じて、一般人のあいだに敵国に対する憎悪といったようなものはあまり認められなかった。ときに新聞がそのような感情をあおりたてようと試みたこともあったが、すべて徒労におわった。戦争の初期の勝利のあと、人々は敵を見下し、軽視するようになった。 やがて、連合軍が反撃に転じて着々と前進をはじめ、ことにB29が威風堂々と日本の上空に姿をあらわすようになると、人々はアメリカの工業力に驚嘆した。 おそらく、つぎのような経験ほど一般人の精神的態度をよく浮き彫りにしてくれるものはないだろう。あの爆弾が投下されてから二、三日たったある日、広島大学のある先生が我々を訪れ、日本はあれと同じ性能をもつ爆弾でサン・フランシスコを壊滅せしめようとしていると語ったのである。 いったいこの人は、自分が話していることを自分で信じているのだろうか。おそらく彼は、われわれ外国人に、日本もアメリカと同じ科学的水準にあることを信じさせたかったのであろう。彼は、愛国心のおもむくままに自分でもこれを信じるようになり、つねひごろから待望し信じてきた可能性を、とうとう完全な現実だと思い込むようになったに違いない。 また人々のあいだには、新型爆弾の原理は日本でも発見されているのだが原料の不足のために実用化できないでいるだけなのだという噂もながれていた。日本での発見がドイツ人によって継続発展させられ、まさに爆弾製造にまでこぎつけていた。アメリカ人は、このドイツの発明を手に入れ、工業化に成功したのである。このような噂が、まことしやかに人々の間に伝わっていたのである。 我々は幾度となく、原子爆弾を投下することの倫理性について論議をたたかわした。ある人たちは原子爆弾を毒ガスと同列に論じ、これを非戦闘員に投下するのは許されぬ行為だと主張し、他の人たちは、現在日本が遂行しつつあるような全体的戦争においては戦闘員と非戦闘員の間に本質的な区別は存在せず、しかも原子爆弾は事実において日本の降伏を促すことによって、戦争の流血を停止させ、確実に予測されていた日本国民の玉砕を未然に防いだてんを考えなければならないと主張した。 私の意見はどうかといえば、もしも我々が近代的な全体的戦争を是認するならば、その論理的帰結として、とうぜん非戦闘員の殺傷を非難することはできなくなるということである。したがって、残された根本問題は、正当な目的のためとあらば今日みられるような形態の全体的戦争が倫理的に正当化され得るのかということになる。 しかし全体的戦争というものは、それによって獲得されるはずのあらゆる善よりもはるかに大きな物的ならびに倫理的悪を、当事国の国民に不可避的にもたらすとは言えないだろうか。倫理神学者たちは、この具体的な問題に対して、はやく明確な解答を与えてくれないものだろうか。 (『聖心の使徒』一九七○年七・八月合併号、九月号より) (訳者註:ジーメス神父は、その年の九月の初めに東京に帰り、さっそく原爆の体験記を書き始め、九月二十日ごろ、それを終えた。この記録は、原爆後わずか一ヵ月半にイエズス会内の修友たちのために書かれたものである。)
(中国新聞社『ヒロシマの記録』被爆30年写真集による)】 |